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徒然草

あるきっかけで、今夜、この徒然草の現代訳ページを完読。


新訳 もの狂おしくない『徒然草』


私、中学生だか高校生のときの国語の授業で知ったときから
吉田兼好が大好きで、ほんっとーーーに好きで
前にも後にも、吉田兼好ほどその思想を理解できる歴史上の人物っていないと思う。
徒然草は、まじで面白いんですよ。無駄に過激でね。
まとめると
「世は無常」
「老いて見苦しくなる前にさっさと出家しろ」
「妻は不要」
「子孫は不要」
ってところか。


あの刺々しい文章が大好き。
しょっぱなからいきなり他人の批判始めるし、思想が超絶偏ってるし、しかも煽るし。
思想披露以外の、あまりオチのない日記部分も結構ツボる。
吉田兼好が現代にいたら、絶対にアルファブロガーになれるのにー
少なくとも私は追っかけるぞ!
世捨て人、最高にファンキーである。
清少納言と二人で、時空超え対談とかやって欲しかった。



以下、私が気に入ったファンキー部分を抜粋


最高の理想は天皇の位だが、これはおそれ多いこと。皇族方は子々孫々にいたるまで我々一般人とは血統が違う。摂政関白こそが我々にとっての最高の理想だ。下の方の位でも舎人(とねり)になれたら十分自慢できる。いくら落ちぶれても孫の代までは上品そうだ。しかし、それより位が下がると、出世したと得意がるのさえ実にみっともないことである。

 一方、何をおいても最低なのが坊さんだ。清少納言が「人に石ころのように扱われる」と書いたのももっともである。有力者にのし上がっても、全然すごいとは思えない。むしろ、増賀(ぞうが)上人が言ったように、名声を求めるのは仏の教えに反している。本当の世捨て人なら理想とすべき面もあるかもしれないが。

 人は容姿はすぐれているのがいいと思われがちだが、実際には、話をして不愉快でなく口数が少なく感じのいい人こそ、いつまでも一緒にいたいと思うような人である。逆に、外見がよくても性格が悪いことが分かるとがっかりする。家柄や容貌は生まれつきだが、性格の方は努力次第でどうにでもなる。しかし、外見と性格がよくても教養がないと、醜くて下品な人に簡単に言い負かされてしまって情け無いことになる。
(第1段)

しょっぱなの第1段からいきなり他人disを始める吉田様

貴族だろうと平民だろうと、子供はない方がいい。

 前の中書王(中務卿兼明親王)も九条の太政大臣(藤原信長)も花園の左大臣(源有仁)も、どなたも自分の血筋が絶えることを願っておられた。

 『大鏡』によれば、染殿の大臣(藤原良房)も「子孫などない方がいいのですよ。逆にぐうたら息子ができたら大変です」とおっしゃったそうだ。

 聖徳太子も自分の墓を作らせるときに「あれもいらない。これもいらない。わたしは子孫を残すつもりはないのだから」とおっしゃったという。
(第6段)

自らの世捨て人嗜好を正当化するため、昔の偉人をもってきちゃいました。
しかし私はこれらの人々に大いなる共感を覚える。これはほんと。

 どうせ永久には生きられないのに、どうして長生きして醜い老人になろうとするのか。「命長ければ辱多し」と言うではないか。長くてもせいぜい四十前に死ぬのが見苦しくなくていいのである。
 もしそれ以上生きるようなことがあれば、人は外見を恥じる気持ちを忘れて人前に姿をさらすようになるだろう。また、死が近づくと子孫が大切になって、孫子の栄える将来まで長生きしたくもなるだろう。さらには、この世に対する執着心ばかりが強くなって、風流も分からなくなってしまうだろう。まったく嘆かわしいことである。
(第7段)

老人につくづく厳しい吉田兼好
しかし当の本人は70-80年生きたっぽいぞ!

事実は面白くないからか、世間の言い伝えの多くは皆嘘である。
 もともと人は事実を誇張して話す傾向があるが、それが昔のことや遠方のことだと勝手に話を作ってしまう。そして、それが何かの文章になったりすると、もうそれがそのまま定説となってしまうのだ。
(中略)
 いずれにしてもこの世は嘘だらけだから、ただ珍しくもなくありふれたことだけをそのまま受け入れておけば万事間違いがない。下賤の者の話は、聞けば驚くようなことばかりだが、立派な人の話にはあまり珍しいことはないのである。
(第73段)

極端だけど半分納得

健康第一と体を大切にして一体何を待つというのか。行き着くところは、老いと死だけではないか。しかも、その老いと死は一瞬も歩みを止めることなく、すぐにやってくるのだ。
 そんなものを待つ間にどんな楽しいことがあるだろう。ところが、迷いにとらわれた者には、この恐ろしさが分からない。富と名声の追求に夢中になって、終わりの近いことが見えなくなっているからである。一方、愚かな人は老いと死の到来を悲しがる。彼らは変化の理法が分からずに、永久不変の生を願うからである。
(第74段)

永久不変の生…!薔薇の末裔…!(内輪ネタ)

 狂人の真似をして大通りを走れば、すなわち狂人である。悪人の真似をして人を殺せば、すなわち悪人である。逆に、駿馬(しゅんめ)を真似る馬は駿馬の一員となり、中国の聖王舜(しゅん)を真似る人は舜の仲間となる。上辺を偽っても人の徳を真似る人は、人徳者というべきなのである。
(第85段)

偽善でも善は善

なぜなら、この世は常に変化して留まることがないからである。あると思ったものは無くなるし、始めたことは終わりまで続かない。志が成就することはないし、願い事は叶わない。人の心は移ろいやすい。いや、全ての物事は仮初めなのだ。いかなるものも一瞬として同じ所に留まってはいない。
(第91段)

これは私もまじでそう思う。
小学生のときから今まで、かなり本気でこう思ってる。

 偉い坊さんたちが言ったことをまとめて『一言芳談』という名前の本にしたものを読んだことがある。そのうちでわたしが気に入って覚えているものは以下のとおり。

一、したほうがいいか、やめておいたほうがいいかと迷っているうちは何もしない方がよいことが多い。

二、来世を願うなら、財産はぬかみそ漬けの壺一つも持ってはならない。お経の本や仏像も高価なものを持つのはよくないことだ。

三、世捨て人は、何も無くても困らないような暮らし方をするのが最もよい。

四、高位の僧侶は位を捨て、知恵者は知恵を捨て、金持ちは金を捨て、一芸に秀でた人はその芸を捨てるべきである。

五、悟りを求めるとは簡単なことである。つまり、何よりも、暇な人間になって、世の中の出来事に煩わされないようにすることである。

 そのほかにもあったが忘れた。
(第98段)

第1段で早速坊さん批判をしたのに坊さんの話。
しかも「その他は忘れちゃったー」ってあんた。

 女を上品だとか素敵だとか思うようになったら、それはまさに女に迷って自分を見失っているということなのである。
(第107段)

きた!偏り発言!石原慎太郎が言ったら叩かれそうだが、兼好なら許すよー

勝負事で負けが込んだ相手が有り金を全部賭けてきた場合には勝負をしてはいけない。そういう場合は、ツキが変わって相手が連勝するときが来たと思うべきである。この時が分かる者をすぐれた博打打ちと言うのだ。
(第126段)

きっと…負けちゃったんですね…
悔し紛れに書いてるんですね…残念でしたね…

貧乏人は金をやるのが礼儀だと思い、年寄りは体力を使うのが礼儀だと思いがちだ。しかし、身の程をわきまえて、できないものはできないと手を引くのが賢明なやり方である。それを認めようとしないのも、身の程知らずに無理にがんばるのも、いずれも間違いである。
 貧乏人が分を忘れると盗みを働くようになり、体力のない老人が分を忘れると病気になるのが落ちである。
(第131段)

これは名言!私もそう思う。非合理的。

考えのなさそうな人間でも立派なことを言うことはあるものである。
 たとえば、恐ろしげな風体の田舎者が傍らにいる人に「子供はいますか」と尋ねて「一人もいません」と答えたところ、その男は「それでは人情の機微は分かりますまい。定めし薄情な人だろうと思うとぞっとします。子供をもってはじめて人の情の細やかさが分かるものです」と言ったという。
 確かにそうかもしれない。孝行を知らぬ者も、子を持てば親の心が分かると言うように、こんな男の心に情愛の念が芽生えたのも、親子関係があってのことだろう。
(第142段)

私も将来これ誰かに言われるだろうなー

五十になっても上達しないような芸事はやめた方がいいと、ある人が言っている。稽古をしても上達するだけの時間が老人にはないし、大勢の人に混じって稽古にはげむ姿には可愛げがない。下手な老人を笑うこともできず、むしろ見るに忍びないからである。
(第151段)

辛辣

男は家に妻を持つべきではない。

 「わたしはいつも一人住いで」などと聞くと本当にかっこいいと思うが、反対に「だれそれの婿になった」とか「どういう女をつれ込んで一緒に住んでいる」などと聞くと、そういう人には幻滅させられる。

 というのは、大したことのない女を自分ではいいと思って一緒にいるのだろうと、少なくともそう推測せずにはいられないし、反対に、いい女なら、さぞかわいがって宝物のように大事にしているのだろうと、そんなふうに思わずにはいられないからだ。

 その上、家の中を女があれこれ切り盛りして取りしきっているのは、なんとも情けないことだし、子どもが生まれて、宝物のように大切に育てて可愛がっているのもみっともないことだ。また、男が死んでから年老いた女が尼になるのは、死んだ後まで格好の悪いことである。

 どんな女でも毎日毎日見ていると、可愛くなくなって、憎たらしくなってくるものだ。それは女にとっても不幸なことだろう。だから、別の場所から時々女のもとに通うのが、長い年月がたっても別れない秘訣である。女のもとにちょっと立ち寄って泊って行くようにしてこそ、新鮮さが保てるのである。
(第190 段)

きましたちょう偏った恋愛論!いいよいいよー

世の中には何一つとしてあてにできるようなものはない。愚かな人は、何かをやたらとあてにするから、腹を立てたり恨んだりするのである。

 例えば、権力者もあてにはできない。強い者から先に倒れるからである。金持ちもあてにはできない。金はあっという間に無くなるからである。頭のいい人もあてにはできない。孔子でさえも不遇だったからである。立派な人もあてにはできない。顔回(がんかい)でさえも不幸だったからである。主君のひいきもあてにはできない。一瞬にして罪を被(こうむ)り殺されるからである。家来もあてにはできない。裏切って逃げることがあるからである。人の好意もあてにはできない。人の気持ちは変わるものだからである。約束もあてにはできない。約束が守られることは少ないからである。

 自分であろうと他人であろうと一切をあてにしないことだ。そうすれば、うまくいったときに喜ぶことはあっても、うまくいかないときに腹の立つことはなくなる。
(第211段)

これは真理。ちょう同感

 人目を忍ぶために不自由な思いをしながら女のもとに通ったり、多くの見張りがいるのに暗闇の中を無理をして通ってこそ、男の恋心は深まるものであり、忘れがたい思い出もたくさんできるだろう。

 それに対して、もし女の親兄弟に交際を許可されて相手の家にすんなり迎え入れられたりしたら、男はきっとばつのわるい思いをするにちがいない。
(中略)

 長年の恋の苦労を分かち合い、困難を乗り越えた思い出を語り合ってこそ、男女は尽きない話があろうというものである。
 総じて、人のお膳立てで女と会っても興ざめで鬱陶しいことが多いにちがいない。そんな場合、たとえ相手がいい女でも、男が卑しく醜く年老いていたりすると、この女はどうして自分みたいな駄目男のために大切な体を粗末にするのかと相手が信用できなくなるし、相手と一緒にいると自分がいかにも見劣りするのでますます自信を失うしで、きっと面白くないだろう。

 物語の主人公が梅の香りの漂うおぼろ月夜にたたずんでいたり、夜明けの月のもと夜露の降りた野原をかき分けて御所から出てくるのを、自分のことのように思うことがないような人は、恋愛などしない方がいいのである。
(第240段)

偏っとるなー



吉田兼好はまじでファンキーだし文章面白いので、私の永遠のカリスマです。

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